博(ひろし)、54歳。横浜市磯子区洋光台在住の会社員。自分も洋光台の団地で育った。妻の幸子と二人暮らし。息子の翔太(28歳)が先月結婚して、「家を建てたい」と言い出した。注文住宅。自分の人生にはなかった選択肢だった。
日曜日の朝、根岸線の洋光台駅を降りて、いつもの坂を上った。
洋光台はどこへ行くにも坂がある。駅がちょうど谷底にあるから、家に帰るには必ず上り坂を歩くことになる。30年以上この坂を上り下りしている。冬の朝は息が白く、夏の夕方は蝉の声が坂の両側から降ってくる。5階建ての団地が並ぶ道を抜けると、空が広くなる。洋光台の空は、広い。高い建物がないから、丘の上に出ると横浜の街がずっと遠くまで見える。
博は、この街で育った。洋光台第二小学校に通い、同じ名前の中学校を出て、金沢高校まで根岸線で通った。大学は都内に出たけれど、就職してまた洋光台に戻ってきた。結婚して、幸子と一緒に団地の3階に住んだ。翔太が生まれて、駅前のプレーゴで買い物をして、はまぎん こども宇宙科学館に連れて行って、プラネタリウムを見せた。翔太は暗くなった天井を見上げて、「お父さん、星ってあんなにあるの」と言った。あの声を、まだ覚えている。
「家を建てたい」と息子が言った
その翔太が28歳になって、結婚した。相手は大学の同級生で、今は二人で川崎のアパートに住んでいる。先月、夫婦揃って洋光台の実家に来たとき、翔太が言った。
「お父さん、俺、家を建てようと思ってるんだ」
注文住宅。自分で間取りを決めて、自分で設計して、ゼロから家を建てる。博は一瞬、言葉が出なかった。自分は団地で育って、結婚しても団地に住んだ。「家を建てる」という発想が、自分の人生にはなかった。
「いいじゃん、翔太」。幸子が先に答えた。「どのあたりに建てるの?」
「まだ全然決まってないんだけどさ。横浜のどこかがいいなって。港南台とか、上大岡のあたりとか」
港南台。洋光台の隣だ。根岸線で一駅。あの駅前のバーズで翔太のランドセルを買ったのを思い出した。
「でも、何から始めればいいかわかんなくて。ハウスメーカーとか工務店とか、多すぎて」
翔太は困ったように笑った。博もわからなかった。自分が建てたことがないのだから。
何をしてやれるかわからないけれど
翔太たちが帰った夜、博はリビングの窓から外を見た。洋光台の夜景。団地の窓に灯りが点々と並んでいる。向こうに、杉田の方の街灯がぼんやりと光っている。この景色を何千回と見てきた。
幸子がお茶を持ってきた。「翔太、本気みたいだね」
「みたいだな」
「何かしてやれることないかね」
博は黙っていた。住宅ローンの頭金を出してやるほどの余裕はない。土地を持っているわけでもない。自分にできることは何だろう。ふと、スマホを開いた。「注文住宅 カタログ 無料」と検索してみた。
すると、注文住宅のカタログを一括で取り寄せられるところがあった。複数のハウスメーカーや工務店のカタログを、まとめて無料で請求できる。建築予定地を入力すれば、そのエリアで建てられるメーカーだけが表示される。
「これなら、俺にもできるかもしれない」
翔太に代わって情報を集めてやることくらいなら。カタログを取り寄せて、中身を見比べて、「この会社はこういう家が得意みたいだぞ」と伝えてやることくらいなら。お金は出せないけれど、時間と手間なら出せる。
博がカタログを取り寄せたのは、ここだった
届いたカタログを、団地のリビングで開いた
数日後、カタログが届いた。段ボールに入った、分厚いカタログが何冊も。博はリビングのテーブルに広げた。
写真が美しかった。吹き抜けのリビング。大きな窓から庭が見える家。子ども部屋が2つある間取り。キッチンからリビングが見渡せる設計。こんな家があるのか、と思った。
団地の3LDKしか知らなかった。天井の高さも、窓の位置も、決められた中で暮らしてきた。それが悪いとは思わない。洋光台の団地で育ったことに、博は感謝している。でも、翔太には選べる。壁の色も、床の素材も、窓の大きさも。ゼロから選んで、自分たちの家を作ることができる。
幸子が隣に座って、一緒にカタログを見始めた。「この間取りいいね。キッチンが広くて」と幸子が指差した。「翔太の奥さん、料理好きだから喜ぶんじゃない」
「この会社、横浜に強いみたいだぞ。港南台の施工事例も載ってる」
二人で付箋を貼りながら、気づいたら2時間が経っていた。自分たちの家を建てるわけではないのに、不思議と楽しかった。息子の家の間取りを、夫婦で想像しているだけで、胸が温かくなった。
日曜日、坂を下って翔太に会いに行った
次の日曜日、博は付箋だらけのカタログを紙袋に入れて、洋光台駅の坂を下った。根岸線に乗って、川崎の翔太のアパートに向かった。
「これ、注文住宅のカタログ。取り寄せてみたんだよ」
翔太は驚いた顔をした。「え、お父さんが?」
「ネットで頼んだだけだよ。何社か比べてみろよ。付箋は、お母さんと二人で気になったところに貼っておいた」
翔太がカタログを一冊ずつ手に取った。付箋のところを開いて、間取りを見て、「この吹き抜け、いいな」と言った。翔太の奥さんも「この会社、自然素材が使えるんだ」と興味深そうにページをめくっていた。
博は黙って、その様子を見ていた。自分が建てたことのない家のカタログを取り寄せて、息子に渡す。それだけのことだった。でも、翔太が「ありがとう、お父さん」と言ったとき、博は来てよかったと思った。
もしあなたの子どもが「家を建てたい」と言ったら
注文住宅のことなんてわからない。ハウスメーカーと工務店の違いも、坪単価の相場も、住宅ローンの組み方も。でも、カタログを取り寄せることなら、スマホひとつでできる。
複数のハウスメーカーのカタログを一括で、無料で請求できる。届いたカタログを見比べれば、会社ごとの特徴や得意な家のタイプがわかる。それを子どもに渡してやるだけでいい。
お金は出せなくても、手間なら出せる。情報なら集められる。親として子どもにしてやれることは、案外そういう小さなことかもしれない。
息子に渡せるものが、ここにある
川崎からの帰り道、博は根岸線の窓からぼんやりと外を見ていた。磯子を過ぎて、新杉田を過ぎて、洋光台駅に着いた。改札を出ると、いつもの坂が待っている。
坂を上りながら、ふと思った。翔太が家を建てたら、きっと遊びに行く。幸子と二人で。新しい家のリビングで、翔太が淹れてくれたコーヒーを飲むかもしれない。庭があったら、幸子が花を植えるかもしれない。
団地の5階建てが並ぶ坂道を上りきると、空が広がった。洋光台の空は、やっぱり広い。
翔太が建てる家にも、広い空が見える窓があるといい。

