56歳、息子が家を買う。30年前、カーテンのない窓から月を見た夜を思い出した。

登場人物

和恵(かずえ)、56歳。さいたま市浦和区在住。市立図書館のパート勤務。夫の昭夫(58歳)と二人暮らし。息子の拓也(28歳)は去年結婚し、妻の茜と都内の賃貸に住んでいる。

日曜日の昼過ぎ、拓也から電話があった。

「お母さん、ちょっと相談があるんだけど」

相談、という言葉に和恵は少し身構えた。結婚してまだ1年。何かあったのかと思った。

「家を買おうと思ってる」

和恵はテーブルの上の湯呑みを置いた。「家?」と聞き返した。拓也は「うん。茜と話して、賃貸にずっと払うなら買った方がいいかなって」と言った。28歳。社会人になって5年。もうそういうことを考える年齢になったのだと、和恵は思った。

「いいじゃない」と和恵は言った。嬉しかった。息子が自分の家を持つ。でも同時に、胸の奥がざわついた。家を買うということが、どれだけ大変なことか。和恵は知っている。

30年前、カーテンが買えなかった夜

電話を切ったあと、和恵はしばらく居間の窓を見ていた。ベージュのカーテンが午後の光で少し透けていた。このカーテンは、引っ越してから2年目に買い替えたものだった。最初のカーテンではない。

最初は、カーテンがなかった。

30年前、昭夫が28歳で和恵が26歳のとき、この家を買った。浦和の住宅街の、小さな建売だった。頭金はギリギリだった。親からの援助はなかった。二人で貯めたお金を全部出した。それでもギリギリだったのに、契約のときに仲介手数料の金額を見て、和恵は声が出なかった。物件価格の3%と6万円。百万円近い金額が、頭金とは別にかかるということを、あのとき初めて知った。

家具を買う余裕はなくなった。カーテンも、後回しになった。引っ越した日の夜、段ボールに囲まれた居間に布団を敷いた。窓にはカーテンがなかった。外の街灯の光がそのまま部屋に入ってきた。

昭夫が窓の外を見て、「月が出てる」と言った。和恵も見た。カーテンのない窓から、まるい月が見えた。六畳の居間に月明かりが広がっていた。昭夫は「カーテンは来月だな」と笑った。和恵も笑った。笑うしかなかった。でも、布団に入ってから少しだけ泣いた。嬉しいはずなのに、不安だった。ローンの返済が始まる。子供はまだいなかったけれど、欲しいと思っていた。この家で、やっていけるのだろうか。

カーテンのない窓から、月明かりが布団の上に落ちていた。昭夫はもう眠っていた。寝息が聞こえていた。和恵はその月明かりの中で、天井を見ていた。隣の昭夫の寝顔を見た。この人と、この家で、生きていく。月がゆっくりと動いて、壁の影が少しずつ移っていった。

仲介手数料が、あのときの全てだった

30年経って、和恵はあの仲介手数料のことをまだ覚えている。あの百万円がなければ、カーテンは買えた。洗濯機ももう少し良いものが買えた。最初の1年間、二人はずっと節約していた。外食もしなかった。昭夫は弁当を持っていった。和恵がおにぎりを二つ、毎朝握った。梅とおかか。昭夫は一度も「飽きた」と言わなかった。

それが苦しかったかと聞かれれば、苦しかった。でも二人だったから乗り越えられた。昭夫が文句を言わなかったから、和恵も言わなかった。そういう夫婦だった。

でも、息子夫婦にあの思いはさせたくなかった。拓也はまだ28歳で、茜と結婚して1年。二人の貯金がどれくらいあるか、和恵は聞かない。聞けない。親が口を出すことではないと思っている。でも仲介手数料のことだけは、知っておいてほしかった。あの金額を知らないまま契約の席に座って、声が出なくなる経験を、息子にはさせたくなかった。

昭夫に相談した。「拓也に言った方がいいかな、手数料のこと」。昭夫はテレビから目を離さずに「言ったら余計なお世話だろ」と答えた。和恵もそう思う。でも、黙ってもいられなかった。

息子には言えないから、調べた

和恵は夜、台所のテーブルでスマホを開いた。「仲介手数料 無料 マイホーム」と検索した。仲介手数料を安くする方法があるなら、知りたかった。30年前にはなかった選択肢が、今はあるかもしれない。

いくつかのページを見ていくうちに、仲介手数料が最大無料になる不動産会社に辿り着いた。売主が業者の場合、買主からは手数料を取らない仕組みだと書いてあった。全国どこの物件でも対応できる。電話で相談できる。

和恵は画面を見ながら、頭の中で計算した。拓也が検討している物件が3,000万円台だとしたら、仲介手数料は100万円を超える。それが無料になったら、カーテンどころか、家具も家電も揃えられる。あの夜のような思いを、息子夫婦はしなくて済む。

和恵が見つけたのは、ここだった

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「これ、見てみたら」

次の日の夜、拓也に電話をかけた。「こういうのがあるみたいよ」とだけ言って、サイトのURLを送った。仲介手数料のことも、自分たちの30年前のことも、何も言わなかった。押しつけたくなかった。拓也が自分で判断すればいい。ただ、選択肢を一つ増やしてあげたかった。

拓也は「ありがとう、見てみる」と言った。それだけだった。

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家を買うとき、物件価格に目が行きがちだけれど、仲介手数料は見落とされやすい。物件価格の3%に6万円を加えた金額に消費税がかかる。3,000万円の物件なら、仲介手数料だけで100万円を超える。その金額が無料になれば、新しい暮らしのスタートがずっと楽になる。

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数週間後、拓也から電話が来た。「お母さん、決まったよ。契約した」。声が弾んでいた。茜と二人で選んだ物件の話をしてくれた。駅から10分、2LDK、日当たりがいいリビング。拓也が「茜がキッチン気に入って」と嬉しそうに言った。

それから、少し声のトーンを落として言った。「お母さんが教えてくれたところ、使ったよ。手数料、かからなかった」。和恵は「そう、よかったね」と答えた。拓也が「浮いた分でカーテン買えた」と笑った。和恵は受話器を握ったまま、少し黙った。拓也は「お母さん?」と言った。和恵は「うん、聞いてるよ」と答えた。声が震えないように、気をつけた。

電話を切ったあと、和恵は居間の窓を見た。30年前に買い替えたベージュのカーテンが、少し色あせて、風に揺れていた。

昭夫が居間に来た。「拓也から?」と聞いた。和恵は「うん。カーテン買えたって」と言った。昭夫は一瞬きょとんとして、それから「ああ」と言って笑った。30年前のことを、昭夫も覚えていた。

あの夜、カーテンのない窓から月を見た。昭夫が「来月だな」と笑った。和恵も笑った。あれから30年。ローンは終わった。息子は結婚した。息子の新居には、最初の夜からカーテンがある。

和恵はカーテンに手を触れた。色あせた布が、指先にやわらかかった。