52歳、商工会で紹介された税理士がダメだった。妻が遺したファイルに「ここから先はお願いね」と書いてあった。

登場人物

浩介(こうすけ)、52歳。東京都町田市在住。フリーランスのグラフィックデザイナー。40歳で脱サラして独立、12年目。2年前に妻を病気で亡くし、一人暮らし。子どもはいない。

月末が近づくと、浩介の机の上が荒れる。

請求書の下書き、クライアントからの振込明細、交通費の領収書、コンビニで買ったコピー用紙のレシート。デザインの仕事をしたいのに、午前中が経理で潰れる。帳簿をつけなければいけない。振込を確認しなければいけない。領収書を分類しなければいけない。どれも妻がやってくれていたことだった。

引き出しを開けると、妻の電卓がある。ボタンの0と1の印字が薄くなっている。10年以上、妻はこの電卓で浩介の売上と経費を計算していた。帳簿も、請求書の管理も、確定申告の準備も、全部。浩介は数字のことを何も知らなくてよかった。妻がいたから。

妻の字が、ファイルの途中で終わっている

妻が亡くなったのは、2年前の秋だった。膵臓がんだった。見つかったときにはステージ4で、3ヶ月で逝った。

葬儀のあと、少しずつ日常が戻ってきた頃に、書斎の棚にあるファイルを初めて開いた。背表紙に妻の字で「2022年度」「2023年度」と書いてある。几帳面な丸い字だった。

妻が亡くなった年のファイルを開くと、9月まで領収書が日付順にきれいに並んでいた。一枚ずつ付箋がついていた。「交通費」「消耗品」「外注費」。妻の字で。そこから先は、浩介が雑に突っ込んだ領収書が折れ曲がったまま挟まっていた。同じファイルの中に、妻の丁寧さと、自分の混乱が並んでいた。

最後に付箋が貼ってあるページがあった。妻の字で、こう書いてあった。「ここから先はお願いね」。入院する前に書いたのだろう。浩介は2年間、その付箋を剥がせずにいる。

商工会で紹介された税理士が、ダメだった

一人では何もできなかった。領収書の分類も、帳簿のつけ方も、請求書の管理も、わからなかった。毎月の経理だけで半日が消えて、その分デザインの仕事が遅れる。遅れると売上が減る。悪循環だった。

町田の商工会に相談に行って、税理士を紹介してもらった。月2万円。フリーランスで月の売上が良い月で40万、悪い月は15万の浩介にとって、月2万は大きかった。でも仕方なかった。自分ではできないのだから。

最初の数ヶ月は、まあこんなものかと思っていた。でも半年過ぎた頃から、気になることが増えた。メールを送っても返信が3日後。帳簿の数字について質問しても「確認します」で止まる。毎月の記帳は遅れがちで、催促しないと動かない。請求書の控えを送っても「届いていません」と言われたことが2回あった。

決定的だったのは、確定申告の書類だった。受け取って見たら、売上の数字が一箇所違っていた。指摘したら「修正しておきます」とだけ返ってきた。謝罪はなかった。

妻は10年間、一度もミスをしなかった。一円の誤差もなかった。月2万円を払って、妻以下の仕事をされている。そのことが、悔しいのか、悲しいのか、自分でもわからなかった。

「ダメな税理士」と、深夜に検索した

ある夜、納品を終えたあと、机の上に散らばった領収書を見ていた。今月もまた、経理が溜まっている。税理士に渡す資料をまとめなければいけない。でもまとめたところで、返信は3日後。帳簿は遅れる。ミスがあっても謝られない。

デザインの仕事は好きだ。40歳で会社を辞めてまで選んだ仕事だ。でも経理と税務に追われて、デザインに集中できない日が増えている。妻がいた頃は、こんなことで悩まなかった。

スマホを開いた。「ダメな税理士」と打っていた。同じように税理士に不満を感じている人がいるのか知りたかった。自分だけがこんな思いをしているのか、確かめたかった。

いくつかのページを見ていくうちに、月3,980円で経理と税務をまるごと丸投げできるところに辿り着いた。月2万の五分の一。しかも帳簿も申告も毎月の記帳も全部やってくれる。領収書を送るだけでいい。自分では何もしなくていい。

浩介は画面を見ながら、少しだけ息が楽になった。全部投げてしまっていいんだ。毎月の帳簿も、領収書の分類も、請求書の管理も。妻がやってくれていたことを、もう一人で背負わなくていい。その分の時間を、デザインに使える。

浩介が辿り着いたのは、ここだった

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翌朝、浩介はデスクに向かった。今日は納品が二件ある。散らばっていた領収書を封筒にまとめて、脇に寄せた。午前中はデザインだけに使う。久しぶりだった。

夕方、仕事を終えてから、書斎の棚のファイルを開いた。妻の付箋があるページ。「ここから先はお願いね」。浩介はそっと指先でなぞった。2年間、応えられなかった言葉。

浩介は丁寧に付箋を剥がした。初めてだった。剥がした付箋を、手帳の最後のページに貼り直した。ここからは、自分が持っていく。妻の言葉を、ファイルの中に置いたままにしない。

手帳を閉じて、表紙に手を置いた。薄い付箋の段差が、指先に触れた。