50歳、社交ダンスの”相手の気持ちを知りたい”夫を亡くして3年、この想いを抱えていいのだろうか。

登場人物

紗綾(さあや)、50歳。埼玉県川越市在住。3年前に夫を亡くした。結婚23年。息子は独立して一人暮らし。経理事務のパートをしている。2年前から、友人に誘われて社交ダンスの教室に通い始めた。

玄関の三和土に、黒いダンスシューズを並べた。

艶のある革が、2年間で少しずつ柔らかくなった。つま先に小さな擦れ傷ができている。紗綾はしゃがんでシューズを布で拭いてから、靴箱にしまった。土曜の夜、教室から帰ってきて、いつもこうしている。ひとつの儀式のようになっていた。

靴箱の扉を閉めて、リビングに入る。仏壇の前を通るとき、自然に手が合わさる。「ただいま」。夫の写真は、3年前から同じ顔で笑っている。

隆司さんの気持ちが、わからない

川越駅から歩いて10分のダンス教室に、紗綾は週に2回通っている。隆司さんは半年前に入ってきた人だった。55歳、公務員を退職したばかりで、5年前に奥さんを病気で亡くしたと聞いた。

ワルツの練習でペアを組む順番が回ってきたとき、隆司さんは紗綾の前に立つことが多い。紗綾が水筒を教室の隅に忘れたとき、気づいて持ってきてくれたこともあった。帰り道、駅までの10分を、同じ方向だからと言って一緒に歩くようになった。

でも、それが好意なのかどうか、紗綾にはわからなかった。隆司さんは誰にでも穏やかな人だった。他の生徒にも笑顔で話しかけている。水筒を忘れたのが他の人でも、同じように持っていったかもしれない。駅までの帰り道も、本当にただ同じ方向なだけかもしれない。

先週の土曜、駅で別れるとき、隆司さんは少し迷ってから言った。「来週、良かったら、レッスンの前に一緒にコーヒーでもどうですか」。紗綾はとっさに「考えておきます」と答えた。改札を抜けて振り返ったら、隆司さんはまだそこに立っていた。

あれは、待っていてくれたのか。それとも、たまたまだったのか。紗綾にはわからなかった。

家に帰って、夕飯を作りながら、台所で足が勝手にステップを刻んでいた。

嬉しいはずなのに、眠れなかった

コーヒーに誘われた。それは嬉しかった。でも、嬉しいと思っている自分が怖かった。隆司さんの気持ちがわからないまま、自分だけが浮かれていたらどうしよう。ただの社交辞令だったら。同じ境遇の者への同情だったら。50歳の自分が、勝手に期待して、勝手に傷つくことになる。

夫が亡くなったのは、3年前の冬だった。脳梗塞だった。朝、普通に「いってらっしゃい」と送り出して、会社で倒れた。病院に着いたときには意識がなかった。23年間連れ添った相手が、何の前触れもなく消えた。

最初の1年は、ただ時間が過ぎるのを待っていた。2年目に、友人に誘われてダンスを始めた。そして3年目の今、誰かの気持ちが気になっている。相手が自分をどう思っているのか、知りたいと思っている。こんな気持ちを抱えていいのか。亡き人に失礼ではないか。息子にどう説明するのか。自分の中で何度も問いが繰り返される。

息子にも、友人にも、言えなかった

息子に電話して相談しようとして、スマホを握ったまま手が止まった。母親が父を亡くして3年で、ダンス教室の男性の気持ちが気になっている。相手が自分をどう思っているか知りたい。それを息子は、どんな顔で聞くのだろう。

ダンス教室で一緒の友人にも言えなかった。隆司さんのことを知っているから、話せば「いいじゃない」と笑ってくれるだろう。でも、その軽さが怖かった。紗綾にとってこの感情は、23年間の結婚生活と向き合うことでもあった。

知りたかった。隆司さんのあの優しさは、自分にだけ向いているのか。コーヒーの誘いは、好意なのか、ただの気遣いなのか。顔の見える誰かには聞けないことを、顔の見えない誰かになら聞けるかもしれなかった。

「相手の気持ち 電話占い」と検索した

水曜のレッスンまで、あと3日。その夜、紗綾はスマホを開いた。「相手の気持ち 電話占い」。画面をスクロールしていたら、鑑定満足度98%以上の電話占いのサイトが出てきた。登録無料で、初回は最大30分無料。恋愛専門の占い師が何人も在籍していた。

電話なら、顔を見られない。50歳で、夫を亡くして3年で、ダンス教室の男性の気持ちが知りたい。そんな話を、知らない誰かの前に置いてみる。それが今の紗綾に必要な距離に思えた。

紗綾が電話をかけたのは、ここだった

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占い師は、紗綾が一番聞きたかったことを言った

深夜、部屋の明かりを消して、電話をかけた。紗綾は一息に話した。50歳、夫を3年前に亡くしたこと。ダンス教室で半年前に出会った人のこと。あの人の気持ちが、好意なのか社交辞令なのか、わからないこと。

占い師は、静かに聞いていた。話し終わったあと、少し間を置いてから、ゆっくり言った。「隆司さんとおっしゃるその方は、紗綾さんのことを、とても大切に想っていますよ。一過性のお気持ちではありません。奥様を亡くされた経験があるぶん、紗綾さんの中にあるためらいも、ちゃんとわかっています。急かさずに待ってくれる方です」

紗綾は息を止めて聞いていた。

占い師は続けた。「それから、もうひとつ。亡くなった旦那様は、紗綾さんが誰かと歩くことを止める方ではないですよ。旦那様はきっと、紗綾さんが一人でいる時間が長いほど、心配されています。愛した人の幸せを願うのが、連れ合いを亡くした者の、最後の役目です」

電話を切ってから、紗綾はしばらく動けなかった。言葉にしてもらって初めて、自分がずっとそれを聞きたかったのだと気づいた。あの人の気持ちは本物なのか。そして、自分は踏み出していいのか。その両方を、誰かに言ってほしかった。

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水曜のレッスンの日、紗綾はいつもの時間より1時間早く、教室の下のカフェに入った。窓際の席に座って、コーヒーを一杯頼んだ。約束をしたわけではなかった。でも、隆司さんなら、早く来るような気がした。

10分ほど経ったとき、ガラス戸が開いて、隆司さんが入ってきた。紗綾を見つけて、一瞬だけ目を大きくした。それから、少しだけ笑った。「来てくれたんですね」紗綾も笑った。「考えました」

隆司さんが向かいに座って、コーヒーを頼んだ。二杯のコーヒーが湯気を立てていた。紗綾は、カップを持ち上げる前に、心の中で夫に語りかけた。「あなた、見守っていてね」

仏壇の夫の写真は、家の中で、いつもの顔で笑っていた。