52歳、台所の明かりをつけるのが怖い。でも、もう「おーい」と呼べる人はいない。

登場人物

香織(かおり)、52歳。滋賀県大津市在住。一人暮らし。3年前に離婚した。息子の翼(25歳)は大阪で働いている。結婚していた19年間、虫が出るたびに夫を呼んでいた。離婚して最初の夏、台所に黒い影が走った日から、明かりをつけるのが怖くなった。

台所の明かりを、つけた。

一瞬、目をつぶる。蛍光灯がちらついて白い光が広がると、まずシンクの隅を見る。冷蔵庫の横の隙間を見る。何もいない。今日も、いなかった。肩の力が抜けて、やっと息を吐いた。いつからこうなったのか。自分の家の台所なのに、明かりをつける前に息を止めるようになった。

「おーい」と呼べば、誰かが来てくれた頃

結婚していた頃、夏の夜に台所で何かが動くと、香織はいつもこう叫んでいた。「おーい、出た、出た」。すると居間からスリッパの足音がして、夫の雅彦がため息混じりにやってくる。新聞紙を丸めて、「どこや」と聞きながら、シンクの裏を覗き込んでくれた。香織は冷蔵庫の陰に隠れて、目だけで追いかけていた。雅彦が「もういないぞ」と言うまで、台所には戻れなかった。

そんな夜が、19年間続いた。春の蟻の行列も、梅雨の湿った壁に張りつく蜘蛛も、秋口にどこからか入ってくる小さな蛾も、全部、「おーい」の一言で片づいた。網戸の張り替えも雨どいの掃除も、庭のツツジの剪定も、家のことはぜんぶ雅彦がやっていた。香織は「ありがとう」とも言わなかった。言わなくても、次の日もその次の日も、雅彦はやってくれると思っていたから。

離婚届を出した日に言われた言葉

3年前の秋、離婚届を出した。長い時間をかけて少しずつすれ違い、気づいたときにはもう修復できない距離になっていた。最後の日、玄関で靴を履きながら雅彦が言った。「香織は一人じゃ何もできんやろ」。振り返りもせず、ドアが閉まった。

その夜、水道の蛇口がポタポタと音を立てていることに気づいて、どうやって直すのかわからなくて、リビングの床に座り込んだ。雅彦の言葉が、天井からぽたぽた落ちてくる水の音と一緒に、ずっと頭の中で回っていた。

最初の夏、台所で叫んだ夜

離婚して最初の夏は、6月の終わりに来た。琵琶湖から吹く風が湿気を運んで、窓を開けていると畳がかすかに湿る。その湿気と一緒に、小さな虫たちがどこからか入ってくる季節だった。

夜の11時過ぎ、水を飲もうと台所に行った。明かりをつけた瞬間、シンクの隅から黒い影が走った。香織は声を上げて、サンダルも履かずに玄関を飛び出した。隣の家の門灯の光に虫が集まっていて、それすら怖くて、道路の真ん中で立ち尽くした。6月の夜風が、裸足のつま先を冷やしていた。

結局、翼に電話した。「翼、ごめん、あのな」。息子は何も聞かず、翌朝の始発で大阪から来てくれた。コンビニで燻煙剤を買って、窓を全部閉めて、2時間待った。翼は昼過ぎに帰っていった。玄関で靴を履きながら、振り向いて言った。

「母さん、次は自分でやってみ」

笑っていた。優しい声だった。でもその言葉の奥に、いつまでも駆けつけてやれるわけじゃないという翼なりの本音が透けていた。大阪からここまで、片道1時間半。虫一匹のために、25歳の息子を呼びつけた自分が恥ずかしいのではない。「一人じゃ何もできない母さん」を、翼の記憶に残してしまう気がして、怖かった。

あれから3年、また夏が来る

3年が経った。蛇口はYouTubeを見ながら自分で直した。網戸の張り替えも、ホームセンターの店員さんに聞いて覚えた。ゴミの分別も、町内会の班長の仕事も、全部一人でやれるようになった。雅彦の言葉は、まだ胸の底に沈んでいる。でも、少しずつ、その上に新しい記憶が積もり始めていた。

ただ、一つだけ、どうしても慣れないものがあった。

先週の夜、台所の明かりをつけた。蛍光灯が白く光る。シンクの隅を見た瞬間、黒い影が排水口の方へ消えた。今度は叫ばなかった。声は出さなかった。ただ、膝が震えて、その場にしゃがみ込んだ。スリッパを握りしめたまま、5分間動けなかった。

翼には電話しなかった。3年前、「次は自分でやってみ」と言った息子に、同じ理由でまた電話するわけにはいかなかった。

布団の中でスマホを開いた夜

その夜、布団に入っても眠れなかった。天井を見ていた。どこかで何かが動く気がして、耳が冴えていた。スマホを開いた。「害虫駆除」と打って、検索ボタンを押した。

検索結果がいくつか出てきた。24時間対応。最短15分で到着。見積もり無料。そんな言葉が並んでいた。でも、香織が一番長く見ていたのは、そういう言葉ではなかった。

口コミだった。「一人暮らしで怖くて電話しました」「丁寧に対応してもらえました」。同じような人が、いた。一人で暮らしていて、怖くて、でも誰にも頼れなくて、自分で電話した人が、いた。

出張費・見積もり無料。追加料金なし。納得できなければ断れる。メールでも問い合わせができる。深夜1時、メールなら声が震えてもわからない。

香織が夜中にスマホで見つけたのは、ここだった

※24時間受付。見積もり無料。メールでの相談もOK

業者が帰ったあと、台所の明かりをつけた

翌日の午後、作業員が来てくれた。40代くらいの男性で、玄関先で丁寧に挨拶をしてくれた。「どのあたりで見ましたか」と聞かれて、台所を指差した。自分では見たくない場所を、代わりに見てくれる人がいる。それだけで、胸のあたりが少し緩んだ。

シンクの裏、冷蔵庫の下、排水口の周り。一つずつ確認して、侵入経路を教えてくれた。「ここの隙間から入ってきてますね。塞げば、かなり減りますよ」。香織が3年間怖がっていたものの正体を、この人は10分で突き止めた。作業は1時間ほどで終わった。「もし気になることがあれば、いつでもお電話ください」と名刺を置いていってくれた。

玄関のドアが閉まって、また一人になった。台所に行った。明かりをつけた。今度は、目をつぶらなかった。蛍光灯が白く光って、シンクが光って、いつもの台所がそこにあった。冷蔵庫の横の隙間は、きれいに塞がれていた。

やかんに水を入れて、火にかけた。お茶を淹れて、台所のテーブルに座って、湯飲みを両手で包んだ。窓の外は暗かった。でも、怖くなかった。

もしあなたが、明かりをつけるのを怖がっているなら

一人暮らしで、虫が怖い。でも誰にも言えない。こんなことで業者を呼んでいいのかわからない。そう思っているなら、一つだけ知っておいてほしい。自分で選んで、自分で呼ぶ。それは弱さではなく、自分の暮らしを自分で守ると決めた人がすることです。出張費も見積もりも無料。追加料金もかからない。納得できなければ断れる。メールでの問い合わせもできるから、電話が苦手でも大丈夫。

台所の明かりを、もう怖がらなくていい

※全国対応。出張費・見積もり無料。追加料金なし

翼から月に一度届くLINE。「元気?」。いつも「元気やで」と返していた。業者が来た日の夜、翼からまたLINEが届いた。香織はいつもの3文字を打って、少し考えて、消した。

「元気やで。最近ちょっとだけ、強くなったかも」

送信した。既読がついた。しばらくして、翼から返事が来た。スタンプ一つ。笑っている犬のスタンプだった。

香織はスマホを置いて、台所に行った。明かりをつけた。もう、目をつぶらなかった。