53歳、壁に触れたら指が白くなった。夫と建てたこの家に、あと20年住むために。

登場人物

美咲(みさき)、53歳。宮崎県宮崎市在住。夫の浩と築20年の一戸建てに二人で暮らしている。子どもはいない。海が近い。

南側の壁に、なんとなく手を触れた。指先が白くなっていた。

爪の先まで粉が付いている。こすると広がった。あとで調べてわかったのだが、チョーキングというらしい。外壁の塗膜が限界を迎えて、粉になって浮き上がってくる現象だった。

この家に住んで、20年になる。

浩が「ここにしよう」と言った朝のこと

この家を建てたのは、美咲が33歳のときだった。浩は35歳。結婚して5年が経っていた。子どもはできなかった。不妊治療のことも二人で話し合ったけれど、「二人で暮らしていくのも悪くないよね」と美咲が言ったとき、浩は少し黙ってから「そうだな」と笑った。あの笑い方を、今でも覚えている。力が抜けたような、でもどこか安心したような顔だった。

家を建てようと言い出したのは浩だった。それまでは賃貸のアパートに住んでいた。ある休みの日、浩が車を走らせて海沿いの住宅地に連れてきた。更地があった。風が強くて、美咲のスカートがばたばたと鳴った。浩が車から降りて、更地の真ん中に立って海の方を見た。振り返って言った。「ここにしよう」。風の音が大きくて、最初は聞こえなかった。美咲が「え?」と聞き返すと、浩はもう一度言った。「ここに、家を建てよう」。

なぜここなのか、と聞いた。浩は「風が気持ちいいから」と言った。それだけだった。美咲は笑った。でも、不思議と嫌ではなかった。この人がここがいいと言うなら、ここでいい。そう思えた。

引っ越した日、まだカーテンもついていないリビングで、二人で床に座ってコンビニの弁当を食べた。窓から夕陽が差し込んで、まだ何もない部屋がオレンジ色に染まった。浩が「いい家だな」と言った。美咲は「まだ何もないじゃん」と笑った。浩は「だから、いいんだよ。これから二人で埋めていくんだから」と言った。

20年分の風の跡

あれから20年が経った。何もなかったリビングには、二人で選んだソファがあり、美咲が一目惚れした食器棚があり、浩が日曜大工で取り付けた本棚がある。壁には、二人で旅行に行ったときの写真を飾った。屋久島、知床、しまなみ海道。子どもがいない分、二人はよく旅に出た。

家の外側は、少しずつ変わっていった。3年目に庭に植えた金木犀が大きくなって、秋になると甘い匂いが玄関まで届くようになった。10年目あたりから、北側の壁にうっすらコケが生えた。15年を過ぎたころ、台風の後に雨樋が外れかけた。浩が脚立に登って直したが、「もう高いところはきついな」と苦笑いしていた。

そして20年目。南側の壁に触れたら、指が白くなった。

美咲はその白い指先を見つめながら、不思議な気持ちになった。悲しいのではない。この家が歳を取ったのだ。自分たちと一緒に。20年分の風と雨と日差しを受けて、この壁はずっとここに立っていた。美咲と浩を、守ってくれていた。

どこに頼めばいいか、わからなかった

外壁を塗り替えなければいけないことは、わかっていた。でも、どこに頼めばいいのかがわからなかった。ご近所に聞けば「うちは知り合いの業者に頼んだ」と言う。そんな知り合いはいない。訪問販売の業者が来たこともあったが、浩が断った。「知らん人に家のことを任せられるか」。浩の言うことはもっともだった。でもそれなら、どうすれば。

ある夜、美咲はスマホで「外壁塗装 見積もり どこに頼む」と検索した。すると、複数の業者から一括で見積もりが取れるところがあった。審査を通った業者だけが登録されていて、自分で何社にも電話する必要がない。見積もりを比べて、合わなければ断りまで代行してくれる。

美咲は思った。1社だけに頼んだら、高いのか安いのかわからない。でも何社かを比べれば、相場が見えてくる。そして何より、断るのが苦手な自分にとって、断り代行があるのは大きかった。

美咲が見積もりを取ったのは、ここだった

浩と二人で、見積書を広げた夜

見積もりを申し込んで数日後、3社から見積書が届いた。美咲はリビングのテーブルに3枚を並べた。仕事から帰ってきた浩が、ネクタイを緩めながら「おっ」と言って隣に座った。

「この会社は塗料の名前まで書いてあるね」と美咲が言うと、浩は別の見積書を指差して「こっちは足場代が別になっとる。合計すると高いぞ」と言った。二人で赤ペンを持って、気になるところに印をつけていった。

こんなふうに二人でテーブルに向かうのは、20年前に住宅ローンの書類を広げたとき以来かもしれない。あのときも、浩は赤ペンを持っていた。金利の数字に丸をつけて、「35年ローンか。73歳まで払うのか」と呟いた。美咲は「大丈夫よ、二人で払えば」と言った。あれから20年。ローンはあと13年残っている。でも、二人はまだここにいる。

「この会社にしてみるか」と浩が言った。一番安いところではなく、見積書が一番丁寧だった会社だった。美咲もそう思っていた。

足場が外れた日

工事は2週間で終わった。足場に覆われている間、家がまるで入院しているみたいだった。毎朝、職人さんが来て、養生テープを貼り、ローラーで丁寧に塗っていく。美咲は洗濯物を部屋干しにしながら、窓の外で働く職人さんたちの背中を見ていた。

足場が外れた日、美咲は家の前に立った。壁が、新しい色になっていた。真っ白ではない。少しだけクリームがかった、柔らかい白。美咲が選んだ色だ。20年前、この家を建てたときと同じ系統の色。変えなかったのではない。同じ色をもう一度選んだのだ。

浩が仕事から帰ってきて、家の前で立ち止まった。しばらく壁を見上げていた。美咲は玄関から「おかえり」と声をかけた。浩は「ああ」と言ってから、少し間を置いて言った。「いい家だな」。

20年前と、同じ言葉だった。

壁に触れて、白くなったなら

夜、リビングで二人でお茶を飲んだ。窓の外は暗くて、塗り替えた壁は見えない。でも美咲にはわかっていた。明日の朝、カーテンを開けたら、朝日を受けた壁がきれいに光っているはずだ。

この家に、あと20年。浩と二人で。

壁を塗り直すことは、ただの修繕ではなかった。この家でまだ一緒に暮らしていくと、もう一度決めることだった。