敬子(けいこ)、54歳。栃木県宇都宮市在住。調剤薬局の事務パート。夫の勝(56歳・建設会社の現場監督)と二人暮らし。息子(28歳)は独立。
10月の金曜日、勝が会社の健康診断の結果を持って帰ってきた。
玄関で靴を脱ぎながら、「今年も異常なし」と言った。敬子は台所から「そう、よかったね」と答えた。勝はリビングのテーブルに茶色い封筒を置いて、ソファに座ってテレビをつけた。
敬子は台所に戻った。コンロの上で、豚の角煮が静かに煮えていた。勝の好きな料理だった。健康診断の結果が来る日は、少しだけ丁寧に夕飯を作る。毎年そうしている。勝は気づいていない。
勝の家族は、みんながんだった
勝の父親は、63歳で胃がんで亡くなった。勝が38歳のときだった。見つかったときにはもう手遅れで、半年で逝った。勝の母親は、70歳で大腸がんで亡くなった。勝が45歳のときだった。手術をして、抗がん剤をやって、3年間闘った。
そして去年、勝の兄が、58歳で肺がんで亡くなった。
義兄の葬儀のあと、勝は車の中でハンドルを握ったまま、しばらく動かなかった。敬子は助手席で何も言えなかった。勝の横顔を見ていた。泣いてはいなかった。でも、目が赤かった。エンジンをかけるまで、5分くらいかかった。その5分間、二人とも何も言わなかった。ワイパーが動いていた。いつの間にか雨が降っていた。
父、母、兄。勝の家族は、三人ともがんで亡くなった。仏壇の前に並ぶ写真が、年々増えていく。勝は56歳。義父ががんになったのは63歳。あと7年。敬子はその数字がずっと頭から離れない。
風呂の水音を聞きながら、封筒を開ける
夕飯のあと、勝が風呂に入った。水音が聞こえてきた。敬子はテーブルの上の茶色い封筒を手に取った。
封筒を開けて、結果の用紙を広げた。三つ折りにされた紙を丁寧に開く。身長、体重、血圧、血糖値、肝機能、腎機能、コレステロール。一つずつ、指でなぞりながら確認した。基準値の範囲に収まっているかどうか。異常の印がついていないかどうか。調剤薬局で働いているから、数値の意味は少しわかる。どの数字が上がったら危ないか、どの数字が去年と変わっていたら注意が必要か。
全て、基準値の範囲内だった。「異常なし」。勝が言った通りだった。敬子は小さく息を吐いた。今年も大丈夫だった。
敬子は用紙を封筒に戻して、テーブルの上に置いた。勝が出す前と同じ向きに。開けたことが、わからないように。
毎年やっている。勝が風呂に入っている間の10分間。結果を確認して、封筒に戻す。勝は知らない。敬子が毎年、自分の健康診断の結果より先に、勝の結果を確認していることを。
「俺は大丈夫だ」
義兄が亡くなったあと、敬子は一度だけ勝に言ったことがある。「保険、見直した方がいいんじゃない」。結婚したときに入ったがん保険を、28年間そのままにしていた。
勝は「俺は大丈夫だ」と言った。それ以上は何も言わなかった。テレビのチャンネルを変えて、その話は終わった。敬子もそれ以上は言わなかった。勝の「大丈夫」は、本気で大丈夫だと思っているのか、それとも考えたくないから大丈夫と言っているのか。28年一緒にいても、わからなかった。
大丈夫じゃないかもしれない。義父も義母も義兄も、大丈夫だと思っていた。健康診断で「異常なし」だった翌年に、がんが見つかった。勝だって、来年はわからない。
でも、もう一度言えなかった。「保険を見直そう」と言うことは、「あなたもがんになるかもしれない」と言うことと同じだった。勝が一番気にしていることを、敬子の口から言葉にするのが怖かった。
28年前の保険で、足りるのか
台所の椅子に座って、敬子はスマホを開いた。風呂の水音がまだ聞こえていた。
28年前のがん保険が、今のがんの治療に対応しているのか。調剤薬局で働いていると、がんの治療が昔とは変わっていることを知る。通院しながら抗がん剤を続ける人。免疫療法を受ける人。治療の選択肢が増えた分、お金もかかる。28年前の保険は、入院と手術を想定したものだった。今の治療に合っているのか、わからなかった。
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敬子は画面を見ながら思った。勝には言えない。でも、自分で調べることはできる。まず専門家に聞いてみて、今の保険で足りるのかどうか確認する。足りないなら、そのとき勝に話す。根拠があれば、勝も聞いてくれるかもしれない。
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風呂場のドアが開く音がした。勝が出てきた。リビングに戻って、テレビの前に座った。テーブルの上の封筒を見て、「ああ、置きっぱなしだったな」と言って、棚の引き出しにしまった。
敬子は台所から「お茶入れようか」と声をかけた。勝は「ああ」と答えた。
やかんを火にかけながら、敬子は窓の外を見た。10月の夜は、もう暗かった。来年もまた、勝は健康診断の結果を持って帰ってくるだろう。来年も「異常なし」であってほしい。でも、もしそうでなかったときのために、今できることをしておきたかった。
お茶を二つ、テーブルに置いた。勝が「今日の角煮、うまかったな」と言った。敬子は「そう」と答えた。毎年、この日に角煮を作っていることを、勝はまだ知らない。

