文子(ふみこ)、54歳。新潟県長岡市在住。夫の正志(58歳)と二人暮らし。正志は3年前に脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残った。定年前のご褒美に買った紺色のセダンは庭に止まったまま、車検が切れて動かせない。正志はときどき庭に出て、車のボンネットを手で撫でている。
台所の窓から、庭が見える。
紺色のセダンが、今日もそこにいる。ボンネットに落ち葉が2枚乗っている。フロントガラスに朝露が残っていて、陽の光を受けてかすかに光った。タイヤの空気は少しずつ抜けて、車体がわずかに沈んでいる。あの車がこの庭に来て、もう8年になる。動かなくなってからは、3年。
日曜の朝、夫はいつもホースを持って庭に出た
正志が定年前のご褒美にあのセダンを買ったのは、8年前のことだった。55歳まで製造業の現場で働き続けた自分へのねぎらいだと言っていた。新車で買った。紺色を選んだのは、「派手なのは柄じゃないから」。
それから毎週日曜の朝、正志はホースを持って庭に出た。バケツにスポンジ、拭き上げ用のセーム革。1時間かけて丁寧に洗って、最後にホイールまで磨いた。文子が「またやってるの」と声をかけると、正志は振り向いて「きれいにしとかんと、車がかわいそうやろ」と真顔で答えた。本気だった。
洗い終わると、正志は一人で信濃川沿いを走りに出かけた。どこに行くわけでもない。長岡大橋を渡って、川沿いの道を上流に向かって走り、どこかで折り返して帰ってくる。1時間くらいの、一人だけのドライブ。帰ってくると少しだけ日焼けした顔で、「川が光っとったわ」と言った。それが正志の唯一の趣味だった。
倒れた日、車はスーパーの駐車場に止まっていた
3年前の冬、正志は買い物の途中で倒れた。スーパーの駐車場で、車から降りようとしたときに意識を失った。脳梗塞だった。救急車で運ばれて、手術を受けて、2ヶ月入院した。一命は取り留めたが、左半身に麻痺が残った。
退院してきた日、正志は玄関に立って、庭のセダンを見た。スーパーの駐車場から知人が運転して戻してくれたセダンが、いつもの場所に止まっていた。正志はしばらくそこに立っていた。杖をついた右手が、少しだけ震えていた。何も言わなかった。
それから3年。正志はリハビリで杖をついて歩けるようにはなった。でも、左手はまだ思うように動かない。運転席に座ることは、もうない。
庭のセダンを撫でる背中を、台所の窓から見ている
正志はときどき、庭に出る。杖をついて、ゆっくり歩いて、セダンのそばに立つ。右手でボンネットを撫でる。何も言わない。1分くらいそうして、また家に入ってくる。
文子はそれを、いつも台所の窓から見ている。声はかけない。かけられない。あの車は正志にとって、自分の足で走れた頃の記憶そのものだった。信濃川沿いの道を一人で走って、「川が光っとったわ」と笑っていた頃の、正志自身だった。
車検は1年以上前に切れている。自動車税は毎年届く。任意保険も、動かさない車に払い続けている。頭ではわかっている。でも、「あの車、手放そうか」と正志に言えなかった。それは、正志に「もう運転できない自分」を認めろと言うのと同じ気がしたから。
夕食の箸を止めて、正志が言った
ある日の夕食だった。テレビのニュースが流れている。焼き魚と味噌汁と、漬物。いつもの夕食。正志は箸を止めて、テレビの画面を見たまま言った。
「文子、あの車な、もう誰かに乗ってもらったほうがいい」
文子は箸を持ったまま、正志の横顔を見た。正志はテレビを見ていた。文子のほうは見なかった。
「……うん」
それだけだった。味噌汁の湯気が、二人の間をゆっくり上がっていった。テレビのニュースが次の話題に変わった。正志は箸を取り上げて、何事もなかったように焼き魚を食べ始めた。文子は味噌汁の椀を両手で包んだ。温かかった。
「廃車 引き取り 無料」と検索した夜
その夜、正志が寝た後、文子は布団の中でスマホを開いた。「廃車 引き取り 無料」と打った。
ディーラーに聞いたときは「廃車費用がかかります」と言われていた。車検切れだからレッカーも必要だと。処分するのにお金がかかる。そう思っていた。
でも、検索結果の中に、引き取り無料で、しかも買い取ってくれるところがあった。車検切れでも、エンジンがかからなくても、無料で引き取りに来てくれる。廃車手続きの代行も無料。還付金も上乗せして振り込んでくれる。
廃車なのに、値段がつく。海外輸出や資源リサイクル、中古パーツとして再利用できるから、どんな車でも価値があるのだと書いてあった。
「誰かに乗ってもらったほうがいい」。正志の言葉が、頭の中で繰り返された。パーツになって、どこかの車の中で走り続けるのなら。あの紺色のセダンは、形を変えても、まだ走れるのかもしれない。
文子がその夜見つけたのは、ここだった
※全国対応。引取り・手続き無料。車検切れ・不動車もOK
引き取りの日、正志は庭に出た
査定を申し込んだ。翌営業日に連絡が来て、車検切れで不動車であることを伝えると、「レッカーで引き取りに伺います。費用はかかりません」と言ってくれた。査定額も伝えられた。廃車なのに、値段がついた。文子が思っていたより、ずっと高かった。
引き取りの日が来た。朝から晴れていた。レッカー車が家の前に止まった。作業員が二人来て、丁寧に挨拶をしてくれた。
正志が、杖をついて庭に出てきた。文子は止めなかった。
正志はセダンのそばに立った。右手で、ボンネットを撫でた。いつもと同じように。ゆっくりと、端から端まで。落ち葉が1枚、正志の手に触れて、地面に落ちた。
作業員がセダンをレッカーに載せていく。タイヤが地面を離れた。正志はそれを見ていた。車体が完全にレッカーに載り、固定ベルトが締められるまで、じっと見ていた。
レッカー車が走り出した。角を曲がって、見えなくなった。
正志は振り返らずに、家に入った。文子だけが、庭に立っていた。セダンがいなくなった庭は、思ったより広かった。
もしあなたの家にも、動かなくなった車があるなら
車検が切れた車が、庭や駐車場に止まったまま。エンジンがかからない。ディーラーに聞いたら廃車費用がかかると言われた。でも処分を先延ばしにしている。そんなあなたに、一つだけ知っておいてほしい。
動かない車でも、値段がつくことがある。引き取りは全国無料。レッカー代もかからない。廃車手続きも代行してくれる。自動車税や重量税の還付金も、買取額に上乗せして振り込んでくれる。査定だけでも無料。納得できなければ断れる。
動かなくなった車にも、まだ値段がつくかもしれない
※レッカー無料。廃車手続き代行無料。還付金も振込
その日の夕食は、いつもと同じだった。焼き魚と味噌汁と、漬物。テレビのニュースが流れている。
正志が言った。「日曜、天気がいいなら、信濃川まで歩いてみようか」
文子は箸を止めた。信濃川。正志がいつもセダンで走っていた道。あの道を、今度は杖をついて、二人で歩く。
「うん、行こうか」
味噌汁の湯気が、二人の間をゆっくり上がっていった。窓の外の庭は、少し広くなっていた。でも、その広さが寂しいとは、もう思わなかった。

