俊和(としかず)、54歳。栃木県宇都宮市在住。地元の自動車部品メーカーで製造ラインの管理をしている。入社から32年、同じ工場に通い続けてきた。10年前に離婚して、今は一人暮らし。若い頃からの唯一の楽しみは、那珂川の渓流釣りだった。
物置の扉を、10年ぶりに開けた。
金属の取っ手が冷たかった。扉の蝶番が、古い家の呼吸のような音を立てた。中から、ほこりと木と、かすかに潮のような匂いが流れ出してきた。奥の棚に、緑色の竿ケースが立てかけてある。そのまま10年、誰にも触られずにそこにいた。
俊和はケースを両手で持ち上げた。思っていたよりも軽かった。
那珂川で出会った女性がいた
27歳の5月だった。早朝の那珂川の上流、朝霧がまだ川面に残っている時間帯に、俊和は一人で竿を振っていた。川岸の大きな岩のあたりで、もう一人、竿を振っている人影があった。それが由美子だった。
当時としては珍しかった、一人で渓流に入る女性だった。同じ年で、宇都宮の病院で看護師をしていた。釣りを教えてくれたのは亡くなったお父さんだと言った。俊和は、その日のヤマメを一匹、彼女に渡した。由美子は笑って、次の土曜も同じ場所にいるか、と聞いた。
翌週の土曜、俊和は同じ岩のところに行った。由美子もいた。それから、毎週土曜の朝、二人は那珂川で竿を振った。2年つき合って、結婚した。結婚式の夜、由美子は「これからも土曜は川ね」と言った。俊和は「そうだな」と答えた。
32年、工場の床を歩き続けた肩に、いつも何かが残っていた
22歳で今の会社に入った。製造ラインの管理職として、毎日、工場の床を何キロも歩く。鉄の匂い、機械の音、蛍光灯の光。それが俊和の30年だった。
30代までは、夕方になっても身体は軽かった。40代の半ばから、肩のあたりに何かが居座るようになった。夜、ジャンパーを脱ぐとき、重みが肩から腕へゆっくり流れていくのがわかった。50代に入ってからは、その重みが朝まで残るようになった。目覚まし時計が鳴っても、布団の中で身体が何かに押さえつけられているような、そんな朝が増えていった。
「年のせいだ」と、同僚たちも笑っていた。俊和も、そう笑って受け流してきた。
由美子の夕飯は、冷蔵庫に静かに並んでいた
結婚して数年は、土曜の朝は二人で車に乗って川に行った。由美子が作ったおにぎりを、川岸で食べた。梅干しと、鮭と、昆布の3種類。俊和は鮭が好きで、由美子は梅干しが好きだった。
でも、俊和が管理職になったあたりから、土曜も出勤することが増えた。平日は残業で帰りが遅くなった。由美子は、夜遅く帰ってきた俊和の分の夕飯を、ラップをかけて冷蔵庫に入れていた。「疲れてるだろうから、もう寝なさい」と言った。俊和は、ありがとうとも言わずに、風呂に入って寝た。
由美子が「土曜、一緒に川に行こう」と言っても、俊和は「今度な」と返した。その「今度」が何度繰り返されたか、俊和は数えていなかった。由美子も、いつからか誘わなくなった。
離婚を切り出されたのは、結婚して14年目の冬だった。由美子は、静かに言った。「あなたは、自分のことも、私のことも、大切にしないね」。俊和は返す言葉がなかった。書類にサインをして、それで終わりだった。
10年ぶりに、竿ケースの蓋を開けた
離婚してからの10年、俊和は一人で那珂川に通い続けた。最初の数年は、毎週土曜に行った。そのうち月に2回になり、月に1回になり、半年前からは一度も行っていない。54歳の身体は、早起きを許してくれなくなっていた。水に立ち込む半日が、肩と腰に居座ったものの重みで持たなかった。
金曜の夜、ソファに座って肩に手を当てていたとき、ふと由美子の言葉を思い出した。「自分のことも、私のことも、大切にしないね」。10年前には意味がわからなかった。今夜、遅れて意味が届いた。
物置に入った。竿ケースを棚から下ろして、居間の床に置いた。蓋を開けた。
中の竿は、10年前のまま、きれいに磨かれていた。ガイドのメタルは曇りなく光っていた。リールシートには、薄くオイルが塗られた跡があった。俊和は、自分で磨いた記憶がなかった。
最後に川に行ったのは、離婚の3週間前だった。由美子を誘わずに、一人で行った。帰ってきて、濡れた竿をそのまま物置に放り込んだ。疲れていて、手入れをしなかった。
でも、今、目の前の竿は、磨かれていた。
由美子だった。離婚の話が進んでいた時期に、由美子は何も言わずに、俊和の竿を物置から出して、磨いて、ケースに戻していた。言葉も、手紙も、残っていなかった。ただ、竿だけが磨かれていた。
俊和は、竿を床に置いたまま、動けなかった。
もう一度、あの川に立ちたいと思った
10年、気づかなかった。気づかせなかった由美子の静けさと、気づけなかった自分の鈍さ。それが、54歳になった今夜、物置の蛍光灯の下で、一度に胸に入ってきた。
俊和は、磨かれた竿をそっとケースに戻した。蓋を閉めた。そして思った。もう一度、那珂川に立ちたい。27歳の朝霧の中で由美子に出会った、あの岩の場所に。今度こそ、ちゃんと身体を整えて、朝早くに起きて、水の冷たさに立ち込んで、竿を振りたい。
でも、今の肩と腰に居座ったものを抱えたままでは、川には立てない。整体に通っても、行ったその日だけ軽くなって、翌朝にはまた重みが戻ってくる。32年、自分の身体を後回しにしてきた代償を、一度に払うことはできない。人生の3分の1を過ごす場所を、まず変えてみよう。20年使い続けた、へたったマットレスを。
スマホを開いて検索した。肩や腰のこりに向き合う寝具を探した。いくつか見比べて、医療機器として認められたマットレスに辿り着いた。磁気の力で身体の巡りに働きかける、一般家庭用の機器だった。
俊和が選んだのは、ここだった
※肩や腰のこり・身体の巡りのために/日本製・1年間品質保証
ありがとう、と声に出さずに言った
3日かけて考えた。由美子と別れてからの10年で、自分のために一度に出したことのない金額だった。でも、3日目の夜、俊和はボタンを押した。
押したあと、しばらくスマホを手に持ったまま動けなかった。震えていなかった。ただ、32年間後回しにしてきた自分の身体に、初めて何かを渡した感覚があった。
居間の床に置いた竿ケースを、もう一度開けた。磨かれた竿に指で触れた。冷たかった。由美子の指が10年前にこの竿を撫でた温度は、もうどこにもない。でも、磨かれた事実だけが、残っていた。
声に出さず、俊和は由美子に話しかけた。ありがとう、と。10年遅れた一言だった。
もしあなたも、自分を後回しにしてきたなら
家族のため、仕事のため、誰かのために走ってきた50代。気がつくと、肩や腰に何かが居座り、朝、身体が布団に張り付いている日が増えている。大切な誰かが静かに差し出してくれていた小さな気遣いに、気づかないまま過ぎた時間もある。
もう一度行きたい場所がある。もう一度立ちたい朝がある。そのために、人生の3分の1を過ごす寝具を見直す夜があっていい。自分のためにひとつの買い物を決めることは、過去の誰かへの遅れた返事でもある。
自分のために、ひとつの買い物をしてみる
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配送予定は、1週間後だった。俊和はカレンダーに小さな丸をつけた。その翌週の土曜、久しぶりに那珂川に行く予定を、手帳に書いた。
ヤマメが釣れなくてもよかった。ただ、あの岩の前に、もう一度立ちたかった。

