佐和子(さわこ)、54歳。熊本市在住。小学校の事務職員。夫は60歳で地方銀行を定年退職し、今は週3日の嘱託職員。子供二人は独立し、長女が3年前に結婚。2年前に初孫の美咲(みさき)が生まれた。築28年の一戸建てに住んでいる。
「ばあば」
台所に立っていた佐和子の背中に、小さな声が当たった。振り返りたかった。でも手が離せなかった。味噌汁の鍋が湯気を立てていて、フライパンの油が跳ね始めていた。
「ちょっと待ってね、美咲ちゃん」
背中で返事をしながら、佐和子は野菜を刻み続けた。壁に向かった古いキッチンは、振り向くと鍋から目を離すことになる。数秒のあいだ、美咲の気配が台所の入口に残っていた。それからぱたぱたと小さな足音が、居間の方へ戻っていった。
「ママー」と呼ぶ声が、襖の向こうで聞こえた。
築28年の台所は、振り向かない造りだった
佐和子と夫が家を建てたのは、27年前の秋だった。長女が2歳、長男が0歳のときだった。当時はそれが普通だったように、台所は壁に向かう造りで、居間とのあいだに襖が一枚あった。料理する妻の背中と、居間でテレビを見る夫。そういう間取りだった。
子供たちが小さかった頃も、佐和子はその台所で料理を作ってきた。背中に向かって「お母さん」と呼ばれることに、慣れていた。振り向かないことにも、慣れていた。手を動かしながら「なあに」と返事をするのが、日常だった。
長女が結婚して、美咲が生まれた。2年前のことだった。
初めて「ばあば」と呼ばれたときの感覚を、佐和子は今も覚えている。慣れない響き。それでいて、胸の奥が温かくなる響き。美咲が舌足らずに呼ぶその二文字が、佐和子の54年の人生の中で、一番きれいな言葉のひとつになっていった。
夫が定年退職して、居間にいる時間が増えた
夫が60歳で地方銀行を定年退職したのは、去年の3月だった。週3日の嘱託職員として同じ銀行に残ったが、平日に家にいる時間が増えた。
夫は現役時代、家のことに一切口を出さない人だった。台所にも立たなかった。子供の学校のことも、家の修繕のことも、全部佐和子が決めてきた。夫は「任せる」という言葉だけを、35年間繰り返してきた。
でも、退職してから、夫は少し変わった。
長女が美咲を連れて来るたびに、夫は居間のソファに座って、美咲が走り回るのをただ見ていた。話しかけるわけでもない。遊ぶわけでもない。ただ見ていた。それが夫なりの愛し方なのだと、佐和子は思っていた。
ある土曜の午後、佐和子が台所で美咲のおやつを準備していたとき、夫が居間から何かを言った。聞き取れなかった。佐和子は「なあに」と背中で返した。夫はもう一度言った。やっぱり聞き取れなかった。振り向いて初めて、夫の顔を見た。
夫は、美咲を膝に乗せていた。
「台所、変えてやろうか」と夫が言った夏
7月の半ばの、蝉が鳴いている土曜日だった。
長女と美咲が帰った後、夫と二人で居間にいた。テレビもつけていなかった。佐和子が麦茶を出して、夫と向かい合って座った。夫はしばらく何も言わなかった。それから、ぽつりと言った。
「台所、変えてやろうか」
佐和子はすぐには言葉が出なかった。35年間、夫の口から家のリフォームの話が出たことは、一度もなかった。退職金の使い道も、老後の設計も、いつも佐和子が切り出す側だった。
「なんで、急に」
夫は麦茶のグラスを見ながら、少しだけ間を置いた。
「美咲が、ばあばって呼んでも、お前振り向かないから」
夫はそれだけ言って、グラスに口をつけた。佐和子は何も言えなかった。
夫は、居間のソファから見ていたのだった。美咲が台所の入口に立って「ばあば」と呼ぶ姿を。その声に振り向けない佐和子の背中を。少し経って、美咲が「ママー」と言って居間に戻っていく姿を。35年間、家のことに無関心だったはずの夫が、そういう小さな場面を、ずっと見ていた。
佐和子は、麦茶のグラスを両手で持ったまま、しばらく下を向いていた。涙がグラスの中に落ちないように、少しだけ顔を逸らした。
その夜、こっそり調べ始めた
夜、夫が寝た後、佐和子は居間でスマホを開いた。
台所のリフォーム、と打った。対面式、と打ち足した。いくつものページが出てきた。佐和子はその中から、無料で見積もりができるサイトを開いた。個人情報を入力しなくていい、項目を選ぶだけで1分で金額がわかる、と書いてあった。
佐和子は画面を指でゆっくり動かしながら、夫の言葉を何度も思い返した。「美咲が、ばあばって呼んでも、お前振り向かないから」。35年間、夫の口から家のことで何かを頼まれたことが、一度もなかった。その夫が、佐和子と美咲のために、初めて口にしたことだった。
見積もりの金額を知るのは、怖かった。でも、美咲が「ばあば」と呼んだときに、顔を向けて「なあに」と返せる台所を、想像せずにはいられなかった。
佐和子が見てみたのは、ここだった
※完全無料・個人情報不要・1分で金額がわかる
画面を閉じて、居間の夫を見た
表示された金額を見て、佐和子はしばらく画面を見つめていた。
思っていたより、手が届く範囲だった。もちろん安い買い物ではない。でも、退職金と、佐和子が長年少しずつ貯めてきたものを合わせれば、払える範囲だった。
佐和子はスマホを閉じて、寝室の方を見た。襖の向こうで、夫が静かに眠っている気配がした。35年間、家のことに無関心に見えていた夫。でも本当は、見ていた。佐和子の背中を。美咲の小さな足音を。台所の入口に置き去りにされた「ばあば」の声を。
佐和子は、まだ夫にはこの話を切り出せていない。明日の朝、朝食を食べながら話せるだろうか。あるいは来週の週末、美咲が来る日の前に、もう一度麦茶を出して、向かい合って座るのがいいかもしれない。
急がなくていいと思った。夫が35年かけて言葉にした一言を、佐和子も、ゆっくり受け取りたかった。
もしあなたも、家の中で誰かの背中を見ているなら
50代になって、家の中の景色が少しずつ変わっていく。子供が独立し、孫が生まれ、夫が退職する。長年見慣れた間取りが、今の家族に合わなくなっていることに、ふと気づく。
大きなことをすぐに決める必要はない。まずは、どれくらいの費用がかかるのかを知るだけで、気持ちが少し整うことがある。個人情報を入力しなくても、項目を選ぶだけで概算が出るサービスがある。
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新しい台所ができたら。
美咲が「ばあば」と呼ぶ声に、佐和子は振り向いて「なあに」と返す。コンロの向こうから、美咲の丸い頬が見える。対面のカウンターに腰をかけた夫が、美咲の頭をそっと撫でている。三人分の声が、一つの部屋の中で重なっている。
まだ先のことだけれど、その景色が、もう佐和子の中で動き始めていた。

