57歳、ローン残り8年。「繰り上げ返済 シミュレーション」と検索した夜、柱の油性ペンの線が目に入った。

登場人物

康弘(やすひろ)、57歳。埼玉県川口市在住。電機メーカー経理部で33年勤務。妻の敦子(55歳)と二人暮らし。息子は東京で社会人、娘は大学4年生。30歳で建てた一戸建て、35年ローンの完済予定は65歳。残り8年、残債約1,000万円。

夜中の一時。敦子が寝室に入ったのを確認してから、康弘はリビングの明かりを消した。暗い部屋で、スマホの画面だけが光っている。画面の光が顔を照らすたびに、目の下の影が濃くなる。最近、眠れない夜が増えた。

「繰り上げ返済 シミュレーション」——もう何十回、この画面を開いただろう。100万円繰り上げ返済すれば、利息が30万円減る。完済が1年半早まる。でも、その100万円がない。娘の学費がまだ1年残っている。

月々の返済は9万8千円。あと3年は今の給料で払える。でも60歳で定年を迎えたら、再雇用の給料は今の6割になる。65歳の完済まで残り5年。年金は65歳まで出ない。60歳から65歳。この5年間を、どうやって乗り越えるのか。

退職金で一括返済すれば完済できる。でもそうしたら、老後の生活資金がなくなる。どの数字を並べ替えても、答えは出なかった。

スマホを閉じて、天井を見上げた。暗い天井の向こうに、敦子が寝ている。「なんとかなるよ」と、いつもそう言ってきた。でも、なんとかならない数字が、画面の中に並んでいた。

柱の油性ペン

朝、敦子がコーヒーを淹れてくれた。いつもと同じマグカップ。いつもと同じ席。窓の外では、敦子が毎朝水をやっている庭の紫陽花が、6月の雨に濡れていた。このキッチンの匂い、この窓からの景色を、康弘は27年間見てきた。

康弘はコーヒーを飲みながら、リビングの柱に目をやった。

柱には5本の横線。一番下に「りょうた 5さい」、その上に「りょうた 7さい」と続く。油性ペンで、康弘が書いた。正月の朝、涼太を柱の前に立たせて、頭のてっぺんに定規を当てて、線を引いた。涼太は「もっと高い!」と背伸びをして、敦子が笑って「ずるしない」と言った。

一番上の線は「りょうた 11さい」で止まっている。中学に入ってからは、涼太が嫌がって測らせてくれなくなったから。

この家を建てたのは27年前。涼太はまだお腹の中にいた。敦子と二人で住宅展示場を回って、図面を広げて、壁紙の色を選んだ。リビングは白。子供部屋は水色と薄いピンク。「子供部屋は二つ」と言ったのは敦子だった。まだ一人目も生まれていないのに、二つ目の部屋まで夢を描いていた。その5年後に、本当に二人目が生まれた。

壁紙はもう黄ばんでいる。階段の手すりは子供たちが毎日触って、木の色が変わっている。庭の紫陽花は敦子が娘の美咲の七五三の年に植えたもの。風呂場のタイルに一枚だけヒビが入っている。玄関の靴箱は、涼太と美咲が巣立ってから半分空いたままだ。どれも古い。でもどれも、この家にしかないものだった。

「繰り上げ返済 シミュレーション」と検索してふと目に入った

会社の昼休み、また同じ画面を開いていた。「繰り上げ返済 シミュレーション」——数字は変わらない。100万円がないことも変わらない。

ふと、検索結果の下の方に「リースバック」という言葉が目に入った。聞いたことがなかった。

タップして読んだ。家を売却して、そのまま住み続けられる。売却金でローンを一括返済できる。引っ越しをしなくていい。

最初は意味がわからなかった。家を売るのに、住み続けられる? 読み進めるうちに、仕組みがわかってきた。売却後は家賃を払う形で、同じ家に住み続ける。ローンの重さから解放されて、でも家は失わない。繰り上げ返済のシミュレーションを何十回繰り返しても出なかった答えが、そこにあった。

あの柱の傷が、頭に浮かんだ。「りょうた 5さい」と書かれたあの線を残したまま、この家に住み続けられるなら。胸の奥で、何かがほどけた。

康弘が辿り着いたのは、ここだった

※無料相談・WEB面談にも対応しています

敦子が気づいていたこと

その夜、康弘はリビングでリースバックについて調べていた。無料で相談できるところが見つかった。WEB面談にも対応している。スマホの画面を見つめながら、まだ迷っていた。

敦子が台所からお茶を持ってきた。湯気が揺れている。康弘の隣に座って、テレビをつけた。最近二人でハマって観ているドラマ。しばらく二人で画面を見ていた。敦子の手が、そっと康弘の手の横に置かれた。触れてはいない。でも、すぐそこにあった。

「康弘さん」

敦子が、画面を見たまま言った。

「夜中にスマホ見てるの、知ってるよ」

康弘の手が止まった。

「通帳見て、ため息ついてるのも」

康弘は何も言えなかった。敦子はまだテレビを見ている。

「私も好きこの家。涼太の柱も、美咲が植えた紫陽花も。でも一人で抱え込まないでね」

敦子の声は静かだった。怒ってもいない。責めてもいない。ただ、隣に座って、同じ方を向いていた。

同じ家の、同じ朝

翌週、二人で無料相談の面談を受けた。画面の向こうの担当者が、丁寧に仕組みを説明してくれた。敦子が隣で一緒に聞いていた。分からない所は敦子が質問した。康弘は横で、敦子の横顔を見ていた。27年前、住宅展示場で図面を見ていたときと同じ顔をしていた。

面談が終わった後、敦子がぽつりと言った。「なんだか、久しぶりに二人で何か決めた気がする」と。康弘は黙ってうなずいた。ローンの重さを一人で抱えていた夜が、遠くなっていく気がした。

その夜、リビングで二人でコーヒーを飲んだ。

この家を、手放さなくてよかった

※住み続けながら売却できる仕組みです

リースバックの無料相談から数ヶ月が経った。

朝、康弘が目を覚ますと、台所からコーヒーの匂いが漂ってきた。窓の外には紫陽花が咲いている。敦子がいつものマグカップにコーヒーを注いでいる。

同じ家で、同じ朝を迎えている。でも、胸の重さがない。通帳を見て、ため息をつくこともなくなった。夜中にスマホを開くこともなくなった。

リビングの柱の前を通るとき、康弘は立ち止まった。「りょうた 5さい」——油性ペンの字は少し薄くなっていたけれど、まだ読める。指でそっと線をなぞった。この線がある場所で、これからも朝を迎えられる。

康弘はコーヒーのマグカップを持ち上げた。いつもと同じ温かさを手のひらに感じた。

敦子が庭に出て、庭のお花に水をやっている。毎朝の光景。何も変わっていない。でも、この「何も変わらない朝」を守れたことが、康弘にとっては全てだった。敦子が振り返って、窓越しに小さく手を振った。康弘も、手を振り返した。