聡美(さとみ)、54歳。千葉県浦安市在住。マンションの高層階に夫の博と二人暮らし。半年前、かかりつけ医に「甘い飲み物を減らしてみてください」と言われたのをきっかけに、炭酸水を飲み始めた。今では毎日2本。あの喉を通るときのシュワッとした刺激が好きになった。でも、箱買いしたペットボトルが玄関に積み上がり、冷蔵庫を圧迫し、毎週のゴミ出しが地味にしんどい。好きで飲んでいるのに、なぜこんなに疲れるのだろう。
玄関を開けると、段ボールが2箱、積んであった。
先週届いた炭酸水の箱買い。24本入り。まだ開けていない1箱が、靴箱の横を占領している。玄関は本来、花を飾るスペースがあったはずだった。今はペットボトルの段ボールが鎮座している。
聡美はため息をついて、その段ボールをまたいでリビングに入った。
冷蔵庫を開ける。上段の半分が炭酸水で埋まっている。横倒しにしたペットボトルが整然と並んでいるけれど、作り置きのおかずを入れるスペースがない。冷蔵庫の中で、水に場所を取られている。
1本取り出して、キャップを開けた。プシュッという音がして、グラスに注ぐと泡が立ち上る。ひと口飲んだ。あの刺激が喉を通っていく。好きだ、この感覚。半年前にかかりつけ医に「甘い飲み物を減らしてみてください」と言われて、代わりに飲み始めた炭酸水。最初は味気ないと思ったけれど、今ではこの刺激がないと物足りない。
好きで飲んでいる。それなのに、この飲み物にまつわるすべてが、地味に重かった。
ペットボトルに追われる暮らし
毎日2本、500ml。1ヶ月で約60本。月に3箱は届く。空になったペットボトルは、キッチンの隅に置いた大きなビニール袋に溜まっていく。週に1回、資源ゴミの日にまとめて出す。ラベルを剥がして、キャップを外して、潰して、袋に入れる。それをマンションのゴミ置き場まで運ぶ。
たかが水。されど、その水のために費やす手間が積み重なっていた。
買い物の手間もある。ネットで箱買いすれば届けてもらえるけれど、届いた段ボールを玄関から運び込んで、冷蔵庫に移し替える。重い。24本入りの段ボールは、持ち上げるたびに腰に響く。54歳の腰に。
博は「俺がやるよ」と言ってくれる。でも、博も56歳だ。いつまでもこの段ボールリレーを続けるのかと思うと、少し暗い気持ちになった。
「蛇口から炭酸水が出たらいいのに」
ある日、資源ゴミの袋を両手に抱えてエレベーターに乗ったとき、ふと思った。
「蛇口から炭酸水が出たらいいのに」
馬鹿な想像だと自分で笑った。でも、家に帰ってからも、その想像が消えなかった。もし蛇口をひねるだけで炭酸水が出たら。段ボールも、冷蔵庫の場所取りも、ラベル剥がしも、ゴミ出しも、全部なくなる。
その夜、なんとなくスマホで「炭酸水 自宅 蛇口」と検索してみた。
すると、水道直結式のウォーターサーバーで炭酸水が出るものがあることを知った。水道の蛇口から分岐して繋ぐだけで、ボタンひとつで炭酸水、冷水、温水が出る。ボトルの交換がない。段ボールも届かない。ペットボトルのゴミも出ない。
聡美は画面をじっと見た。馬鹿な想像だと思っていたものが、現実にあった。
聡美が見つけたのは、これだった
玄関から段ボールが消えた日
問い合わせをして、設置の日が来た。作業員が蛇口の下から細いチューブを繋いで、キッチンの端にサーバーを据えた。所要時間は1時間ほどだった。
設置が終わって、最初の1杯を出してみた。グラスを置いて、ボタンを押す。シュワシュワと泡立つ炭酸水がグラスに注がれていく。
ひと口飲んだ。冷たくて、喉に炭酸の刺激がちゃんとある。ペットボトルと変わらない。いや、作りたてだからか、泡がきめ細かい気がした。
博が隣で見ていて、「俺にも」と手を出した。グラスに注いで渡すと、ひと口飲んで、「うまいな」と言った。それだけだった。でも、二人でキッチンに立って同じものを飲んでいる時間が、悪くなかった。
その週末、聡美は玄関の段ボールを片づけた。靴箱の横のスペースが空いて、前に飾っていた小さな花瓶を戻した。窓から入る午後の光が、花瓶に反射していた。
もしあなたが、ペットボトルに追われているなら
炭酸水が好きで、毎日飲んでいる。箱買いした段ボールが玄関に積まれている。冷蔵庫の半分がペットボトルで埋まっている。毎週、ラベルを剥がして、キャップを外して、潰して、ゴミ出しに行く。
好きなものを飲んでいるだけなのに、なぜか疲れる。その感覚に覚えがあるなら、聡美と同じだ。
段ボールが届かない暮らし。ペットボトルのゴミが出ない暮らし。冷蔵庫が水に占領されない暮らし。それは、思ったより静かで、思ったより軽かった。
ペットボトルのない暮らしは、思ったより静かだった
玄関の靴箱の横に、小さな花瓶が戻った。前はそこにいつも花を飾っていたのに、いつからか段ボールの定位置になっていた。
今、そこには白いカーネーションが一輪、挿してある。
博が「花、買ってきたぞ」と言って、スーパーの帰りに買ってきたものだ。段ボールがなくなったスペースに気づいて、自分で花を選んできたらしい。
54歳。暮らしから一つ、重さが消えた。代わりに戻ってきたのは、花を飾れるくらいの、小さな余白だった。

