哲也(てつや)、57歳。埼玉県さいたま市在住。食品メーカー営業部で33年勤務。妻の美穂(55歳)と二人暮らし。娘は福岡、息子は東京で独立。定年まであと3年。
リビングのソファに座って、哲也はテレビのリモコンを握っていた。チャンネルを変える。また変える。画面だけが動いて、時間は止まったままだった。
台所からバターと小麦粉の甘い匂いが漂ってくる。美穂がパン教室で習った課題のパンを焼いている。焼き上がると写真を撮って、教室の仲間に送る。返信がいくつも届いて、美穂は楽しそうに笑う。
美穂には美穂の休日がある。哲也にはリモコンがある。
33年間ずっとそうだった。朝6時に家を出て、夜9時に帰る。休みの日は疲れて寝ている。目が覚めても、やることがない。本屋に行っても何を読めばいいかわからない。ホームセンターを一周して、何も買わずに帰ってくる。家にいても外に出ても、どこにも自分の居場所がなかった。
美穂の誕生日にケーキを買って帰ることすら、気づけばしなくなっていた。結婚記念日も忘れた年がある。美穂は何も言わなかった。趣味もなければ、美穂を喜ばせた記憶もない。仕事だけが、哲也の全部だった。
55歳で役職定年になった。肩書きがなくなっても、会社には行く。後輩に引き継ぎをして、会議では端の席に座る。定年まであと3年。あと3年で、仕事もなくなる。仕事がなくなったら、自分には何が残るのだろう。
「定年したら何するの?」
美穂にそう聞かれたことがある。パン生地を丸めながら、何気ない声で。
答えられなかった。美穂はそれ以上何も言わなかった。パン生地を丸める手は止まらなかった。
散歩の途中で聞こえた音
散歩に出た。5月の空は高く、どこかの庭先で洗濯物が風にふくらんでいた。特に行く場所があるわけではない。ただ歩いている。いつもそうだ。休日の散歩は、行き先のない移動だった。
住宅街の角を曲がったとき、どこかの家からピアノの音が聞こえた。たどたどしい指の音。同じフレーズを何度も繰り返している。窓が少しだけ開いていて、カーテンが揺れていた。
足が止まった。
小学4年生のとき、放課後の音楽室に忍び込んだことがある。誰もいない教室で、グランドピアノの蓋が開いたままだった。白い鍵盤に人差し指をそっと置いて、押した。ド。冷たくて、滑らかだった。レ、ミ、ファ、ソ。5つの音が、がらんとした教室に響いた。
嬉しかった。
もう一度押そうとしたとき、廊下で上履きの音がして、慌てて逃げた。それきりだった。
家にピアノはなかった。「男がピアノなんて」と父が言った。隣の家の女の子がピアノを習っていて、夕方になると練習の音が聞こえてきた。哲也はいつも、自分の部屋の窓際でその音を聴いていた。
あれから30年以上が過ぎた。住宅街のピアノの音が止んで、哲也は歩き始めた。
「定年後 趣味」と検索した指
家に帰って、ソファに座った。テレビはつけなかった。
スマホを手に取って、検索窓に「定年後 趣味」と打ち込んだ。釣り、登山、ゴルフ、陶芸、カメラ。どれも悪くない。でも、指が勝手に「ピアノ」と追加していた。
検索結果をスクロールしていくと、自宅でピアノが学べる講座が見つかった。DVDとテキストのセットで、楽譜が読めなくても始められるという。収録曲の一覧に目が止まった。第1弾は「第九 歓びの歌」と「ジュピター」。第2弾は「別れの曲」と「なごり雪」。そして第3弾に、「いい日旅立ち」の文字があった。
指が止まった。
美穂が好きな曲だった。結婚する前、週末のたびに海沿いをドライブした。美穂はいつも助手席の窓を少し開けて、風に髪をなびかせながらあの曲を口ずさんでいた。歌詞を全部覚えているわけではなくて、サビだけを何度も繰り返す。それを聴きながらハンドルを握っていた。あの頃の美穂の横顔を、哲也はまだ覚えていた。
33年間、美穂に何もしてあげられなかった。誕生日のケーキすら忘れるような男だった。でも、あの曲を自分の指で弾けたら。美穂の前で、あの曲を弾いてあげられたら。そう思った瞬間、胸の奥で何かが灯った。
哲也が見つけたのは、ここだった
※DVDとテキストのセット。届いたその日から始められます
ヘッドフォン
講座が届いた。テキストとDVD。美穂は何も聞かなかった。
押し入れの奥から、娘が高校時代に使っていた電子キーボードを引っ張り出した。布で丁寧に埃を拭く。鍵盤の隙間に、娘が貼ったシールの跡が残っていた。電源を入れると、小さな赤いランプが点いた。
鍵盤に指を置いた。ド、レ、ミ、ファ、ソ。30年前と同じ5つの音。でも今度は、逃げなくていい。
DVDを再生した。先生が「まずは右手だけでいいですよ」と笑っている。画面の手元を見ながら、同じように指を動かす。ぎこちない。薬指が思うように上がらない。でも、音が出る。自分の指から音楽が生まれる。気づいたら窓の外の光が傾いていた。
まずは第1弾の「歓びの歌」から。美穂の「いい日旅立ち」は第3弾。そこまで続けられたら、美穂の前で弾こう。それまでは黙っていよう。33年分の「ありがとう」を、あの曲に乗せて届けたい。不器用な男の、不器用な計画だった。
美穂が買い物から帰ってきて、鍵盤に向かっている哲也を見た。少しだけ目を丸くして、でも何も言わずに台所へ向かった。
翌朝。キーボードの横に、小さな紙袋が置いてあった。中にはヘッドフォンが入っていた。
「夜でも練習できるでしょ」
美穂はパン生地をこねながら、こちらを見ずにそう言った。33年間、美穂に何もしてあげられなかったと思っていた。でも美穂は、何も求めずに、ヘッドフォンをひとつ置いてくれた。哲也がピアノを始めた本当の理由を、美穂は知らない。知らないのに、続けてほしいと思ってくれている。
5つの音のその先に
帰りの電車の中で、スマホの鍵盤アプリを開いている自分がいた。明日はどこまで弾けるだろう。こんなことを考えながら電車に揺られるのは、33年の会社員生活で初めてだった。
休日の過ごし方が変わった。美穂が台所でパンを焼いている横で、哲也はヘッドフォンをつけて鍵盤に向かう。それぞれの手が動いている。別々のことをしているのに、前より近くにいる気がした。リモコンを握っていた頃の休日が、ずいぶん遠い。
美穂が焼きたてのパンをテーブルに置いた。哲也が鍵盤から手を離して、まだ湯気の立つパンをちぎった。温かかった。
「定年したら何するの?」。美穂のあの問いに、今なら答えられる。大げさなことじゃない。ただ、届けたい曲がある。
あの曲を、自分の指で届けたかった
※初心者専用。楽譜が読めなくても始められます
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散歩に出た。あの住宅街を通ると、同じ家からピアノの音が聞こえた。前より少しだけ上手になっていた。
哲也は立ち止まらなかった。微笑んだまま通り過ぎた。
第3弾まで続けよう。「いい日旅立ち」を弾けるようになったら、ヘッドフォンを外そう。美穂の前で弾こう。
57歳の指はまだたどたどしい。「歓びの歌」の右手パートがようやく繋がってきたところだ。でも、あの曲のためなら続けられる。あの助手席で、風に髪をなびかせていた人のために。

