真由美(まゆみ)、53歳。東京都在住。結婚して2人の子どもを育て、パートで20年ほど事務の仕事をしてきた。下の子が大学生になって家を出た今年、ふと「自分の人生って何だったんだろう」と考えるようになった。体のあちこちが痛むようになり、3年前から近所のヨガ教室に通い始めた。先生の凛とした姿に憧れて、「私もあんなふうになれたら」と思うようになった。でも「53歳から新しいことなんて……」と踏み出せずにいる。
下の子が家を出た日、あなたは一人でリビングに座っていた。
大学進学のために、地方に引っ越していった息子。荷物を積み終えた車が見えなくなるまで、玄関先で手を振っていた。
家に戻ると、誰もいなかった。
いつもならテレビがついていて、子どもたちの声がして、洗濯物や食器の音で家の中は賑やかだった。でも今日は、冷蔵庫のモーター音だけが聞こえる。
ソファに腰を下ろした。
「これから、どうしよう」
夫は仕事で夜まで帰らない。子育ては終わった。パートの仕事は続けているけれど、事務の繰り返し。特に楽しいわけでも、誇りに思えるわけでもない。
これから先、夫が定年するまで5年。それから夫と二人きりの時間。孫ができれば、また違うのかもしれない。でも、それだけを楽しみに生きるには、あなたの人生はまだ長すぎる気がした。
洗面台の鏡に、自分の顔が映った。
53歳。目尻に小さな皺が寄っていた。
「私の人生、これからどうするんだろう」
鏡の中の自分に、問いかけた。
50代女性が「空の巣」で感じる、あの感覚
子どもが独立した家を、「空の巣」と呼ぶそうだ。
英語では「エンプティ・ネスト・シンドローム」という言葉まである。母親が抱える、喪失感のような不安のような、どこに向かっていいかわからない感覚。
20年以上、子育てに人生の中心を置いてきた。朝起きて弁当を作り、洗濯して、パートに行き、帰って夕食を作り、子どもの話を聞いて、眠る。そのサイクルが、気がつけば終わっていた。
嬉しいはずだった。子どもが無事に巣立ったのだから。
でも、心のどこかが空いている。
「お母さん」以外の自分を、もう長いこと生きていなかった。
週に一度だけ、自分を取り戻せる場所
3年前から、あなたは近所のヨガ教室に通い始めていた。
きっかけは、肩こりと腰痛だった。更年期のせいか、体のあちこちが痛むようになった。病院に行ってもはっきりした原因はわからず、「ストレッチでもしてみたら」と言われた。
最初は恥ずかしかった。スタジオに入ったら若い人ばかりで、自分だけ浮いてしまうんじゃないかと思った。
でも、実際に行ってみたら、50代や60代の人も多かった。みんな、静かに自分の呼吸に集中している。誰も他人を見ていない。
ポーズをとって、ゆっくり息を吐く。ただそれだけのことなのに、頭の中が空っぽになった。
週に一度、1時間。
その時間だけは、「お母さん」でも「妻」でもなく、「真由美」に戻れた。
体の痛みは少しずつ和らいでいった。でもそれ以上に、心が軽くなっていくのがわかった。
先生の凛とした姿に、憧れた
教室の先生は、40代の女性だった。
すらっとした背筋。穏やかな声。体の使い方を優しく指導してくれる。生徒一人ひとりの体を見て、「真由美さん、ここ少し硬くなってますね」と声をかけてくれる。
レッスンの最後、シャバアーサナ(仰向けで休むポーズ)のとき、先生が静かに歩きながら言葉をかける。
「今日一日、頑張った自分を、労ってあげてください」
その声を聞くたびに、あなたは涙が出そうになった。
自分で自分を労うことを、長いこと忘れていた。
いつの間にか、あなたは先生に憧れるようになっていた。
あんなふうに、誰かに「大丈夫だよ」と伝えられる人になれたら。自分が助けられたこの場所で、今度は誰かを助ける側になれたら。
でも、それを口に出したことはなかった。
「53歳から、ヨガの先生になるなんて、馬鹿げている」
そう、自分に言い聞かせていた。
「50代から始める人、実は多いんですよ」と、先生が言った
ある日、レッスンの後、先生が話しかけてきた。
「真由美さん、最近ポーズがすごく深くなりましたね。3年通って、体が変わってきましたよ」
「そうですか……」
嬉しくて、少しだけ頬が熱くなった。
ふと、先生に聞いてみたくなった。
「先生、私みたいな歳からでも、ヨガのインストラクターになれますか?」
自分で言っておきながら、恥ずかしくて下を向いた。
でも先生は、少しも驚かなかった。
「なれますよ。50代から始める人、実は多いんですよ」
えっ、と顔を上げた。
先生は、穏やかに続けた。
「子育てが終わって、自分の時間ができた人。会社を早期退職してセカンドキャリアを探している人。自分がヨガで救われたから、次は誰かを救いたいという人。50代、60代の生徒さんが、資格を取って先生になっていくのを、私も何人も見てきました」
「そうなんですね」
「むしろ、人生経験がある人のほうが、生徒さんに寄り添える気がします。若い先生とは違う、深さがある」
その夜、家に帰ってから、あなたはスマホで「ヨガ インストラクター 資格 50代」と検索した。
RYT200という、世界共通の資格
調べてみると、ヨガのインストラクター資格にはいくつか種類があった。
その中で、世界的に最も信頼されている資格が「RYT200」というものだった。全米ヨガアライアンスが認定している資格で、世界中で通用する。日本でも、この資格を持っていれば、どのヨガスタジオでも働ける。
取得するには200時間の学習が必要。ヨガのポーズだけでなく、解剖学、哲学、呼吸法、指導法まで学ぶ。
「200時間……仕事しながらできるかな」
あなたは不安になった。
フルタイムの学校に通う余裕はない。パートは続けたい。家事もある。
でも、さらに調べていくと、動画講義とスタジオでの実技を組み合わせた「ハイブリッド型」のコースがあった。動画は自分のペースで進められる。実技は週末に通えばいい。全国11拠点にスクールがあるらしい。
担任制で、同じ講師が最後まで見てくれる。少人数制だから、50代の自分でも置いていかれない。
「これなら、今の生活を続けながらできるかもしれない」
スマホの画面を見つめながら、あなたは久しぶりに、胸の奥が熱くなった。
「無理かもしれない」と「でも、やってみたい」の間で
夫に話したのは、その週末だった。
「私、ヨガの資格を取りたいと思ってるんだけど」
夫は、新聞から顔を上げた。
「へえ、いいんじゃない」
あまりにもあっさりした返事に、あなたは拍子抜けした。
「でも、50代で新しいこと始めるなんて、恥ずかしくない?」
夫は、少し考えてから言った。
「恥ずかしくないよ。子どもたちが立派に育ったのは、お前のおかげだ。これからは、お前の番だろう」
あなたは、しばらく言葉が出なかった。
30年近く、夫婦で暮らしてきた。喧嘩もしたし、理解し合えないことも多かった。でも、こんなときに、こんな言葉が出てくる人だったのか。
「……ありがとう」
夫は照れくさそうに、また新聞に目を落とした。
資料を取り寄せて、机に並べた夜
無料の資料請求をして、1週間後、パンフレットが家に届いた。
カリキュラム、料金、スクールの場所、卒業生の体験談。
卒業生の中には、53歳で受講して、今はヨガスタジオを開いている女性もいた。50代後半で始めて、地域の公民館でレッスンを開いている人もいた。子育てが終わってから資格を取って、週末だけ教えている人もいた。
みんな、あなたと似た場所から始めていた。
パンフレットを見ながら、あなたは想像した。
もし資格を取れたら、自分はどんな先生になるだろう。どんな生徒さんに来てほしいだろう。どんな声をかけるだろう。
「今日一日、頑張った自分を、労ってあげてください」
あの日、先生が言ってくれた言葉を、今度は自分が誰かに言いたい。
あなたは、ノートを取り出して、書き始めた。
「53歳。これから、始めよう」
もしあなたが、あの日の真由美と同じ場所にいるなら
子どもが独立して、家の中が静かになった。
20年以上、家族のために生きてきた自分が、これから何に向かっていけばいいのか、わからない。
ヨガが好きで、ずっと「自分も先生になれたら」と夢を見てきた。でも、年齢を言い訳に、踏み出せずにいる。
もしそんなあなたが、この記事を読んでいるなら——。
53歳で始めた真由美さんも、55歳で資格を取った方も、60歳で開業した方も、みんなあなたと同じ場所から一歩を踏み出した。
資格を取るかどうかは、まだ決めなくていい。
でも、「自分にもできるのかもしれない」と知ることは、何かを変えるかもしれない。
選択肢があることを知った上で、やらないと決めるなら、それでいい。
でも、選択肢があることすら知らないまま、「もう歳だから」と諦めるのは、もったいない。
人生100年時代、53歳はまだ折り返し地点にも立っていない。
これから先、まだ40年以上、あなたの時間は続いていく。
その時間を、どう生きるか。それを決めるのは、あなた自身だ。
鏡の中の自分に、「これからどうする?」と問いかけたあの日。
その問いに、今度は「こう生きる」と答えられる自分になりたい。
53歳。まだ、何も遅くない。

