典子(のりこ)、53歳。石川県金沢市在住。娘が結婚して家を出てから、週2回、近所のヨガスタジオに通うのが生活の軸になった。5年間通い続けている。インストラクターの先生が好きで、レッスンの後にお茶をしながら話すのが楽しみだった。ある日、先生にふと言われた一言が、ずっと消えなかった。
レッスンが終わって、マットを丸めているときだった。
「典子さん、教える側に向いてると思いますよ」
先生がそう言って、笑った。いつもの穏やかな笑顔だった。典子も笑った。「まさか、私なんて」と手を振って、そのまま着替えに行った。53歳の自分がインストラクターなんて、冗談にもほどがある。そう思った。
でも、帰り道に犀川沿いを歩きながら、あの言葉がずっと耳に残っていた。桜が散り始めた川沿いの道を歩きながら、何度も頭の中で繰り返した。「教える側に、向いてる」。先生は冗談で言ったのだろうか。それとも、本気だったのだろうか。
ヨガが、私の一日を支えていた
典子がヨガを始めたのは、48歳のときだった。娘の真奈が結婚して家を出た年。夫の浩は仕事で帰りが遅く、金沢の家は急に静かになった。朝起きて、誰のためでもない朝食を作り、誰もいないリビングでテレビをつける。そんな日が続いて、何か一つ、自分のためだけの時間が欲しかった。
近所にヨガスタジオがあった。ガラス越しに、女性たちが静かに体を動かしているのが見えた。思い切って扉を開けた。
最初のレッスンで、シャヴァーサナ——最後に仰向けになって目を閉じる時間——で、涙が出た。理由はわからない。ただ、体の力が全部抜けて、自分がここにいるということだけが残った。久しぶりの感覚だった。
それから5年間、週2回、雨の日も雪の日も通い続けた。金沢の冬は長い。でも、スタジオに入ると床暖房で足元が温かくて、レッスンが終わる頃には体の芯からほぐれていた。ヨガが、典子の一日を支えていた。
「向いてる」の意味を、もう少し知りたくなった
先生の一言から2週間が経った。忘れたわけではなかった。むしろ、日に日に大きくなっていた。
レッスンの後、思い切って先生に聞いた。「あのとき言ってくださった言葉、本気でしたか」。先生は少し驚いた顔をして、それからゆっくりうなずいた。
「典子さんは、ポーズを丁寧にやるでしょう。それと、隣の人がうまくできないとき、さりげなくフォローしてくれる。あれは、教えられるものじゃないんです」
典子は黙った。自分ではそんなつもりはなかった。ただ、隣の人が困っていたら、自然に体が動いただけだった。
「もしよかったら、ヨガの資格を調べてみてください。53歳で取る人、たくさんいますよ」
その夜、布団の中でスマホを開いた。「ヨガ 資格 50代」と打ち込んだ。
沖縄で学ぶという選択肢
調べてみると、ヨガの資格にはRYT200という国際的な認定資格があることを知った。取得するには200時間の学習が必要だけれど、オンラインの動画講義で事前に学んで、短期の合宿で実技を集中的に学ぶコースがあった。
合宿の場所は、沖縄だった。
典子は沖縄に行ったことがなかった。金沢から飛行機で2時間半。冬の北陸とは正反対の、あの青い海と白い砂浜。画面に映るリゾートホテルの写真を見ているうちに、「資格を取る」ということよりも、「あの場所に行って、ヨガをする自分」に胸が高鳴った。
夫に話した。「沖縄にヨガの合宿に行きたいんやけど」。浩は新聞から顔を上げて、「行ってくればいいがに」と言った。金沢弁の、あっさりした言い方だった。それだけで背中を押された気がした。
典子が申し込んだのは、ここだった
朝5時、波の音で目が覚めた
合宿の初日、那覇空港に降り立った瞬間、空気が違った。3月の金沢はまだコートが要る。でも沖縄は、タラップを降りた瞬間に湿った温かさが肌を包んだ。風に乗って、どこかから花の甘い匂いがした。
ホテルに着いて、部屋のカーテンを開けた。目の前に、海があった。エメラルドグリーンが水平線まで続いている。金沢の冬の日本海とは、まるで別の生き物だった。
翌朝、5時に波の音で目が覚めた。カーテンの隙間から、オレンジ色の光が差し込んでいた。朝日が海を染めている。ベッドの上でしばらくその光を見ていた。
朝のプログラムは、ビーチでの瞑想から始まった。裸足で砂浜に立つと、砂がひんやりしていた。目を閉じると、波の音だけが聞こえた。寄せて、返して、また寄せて。その音に呼吸を合わせた。体の中の力が、ゆっくりと溶けていくのがわかった。
隣で同じように目を閉じている女性がいた。40代に見えた。その隣にも、50代くらいの女性がいた。みんな、それぞれの日常から離れて、ここに来ていた。
「伝えたい」と思った瞬間
合宿の2日目、インストラクションの練習があった。受講生同士でペアを組んで、交代でポーズの誘導をする。
典子の番が来た。緊張した。声が震えた。でも、目の前の女性が典子の言葉を聞いて、ゆっくりと体を動かしてくれた。途中で「あ、そうか、こういうことか」と小さくつぶやいた。その瞬間、典子の胸の中で何かが動いた。
自分の言葉で、誰かの体が変わる。自分の声で、誰かが深い呼吸をする。それは、5年間マットの上で受け取ってきたものを、今度は自分が渡す側に回るということだった。
「伝えたい」と思った。先生が典子に言ってくれたあの一言の意味が、ようやくわかった気がした。
最終日の夕方、ホテルの屋上テラスで修了式があった。夕日が海に沈んでいくのを、受講生全員で見た。空がオレンジからピンクに、ピンクから紫に変わっていった。誰も何も言わなかった。ただ、風が吹いていた。潮の匂いがした。
もしあなたも、誰かの一言がずっと消えないなら
ヨガが好きで、何年も通い続けている。先生のレッスンが楽しくて、終わった後の時間が好きで。でも、心のどこかで「このまま受ける側でいいのだろうか」と思ったことがある。
誰かに「向いてる」と言われた。冗談だと思った。でも、あの言葉がずっと消えない。
もしそんなあなたがいるなら、一つだけ伝えたい。53歳で資格を取る人は、珍しくない。典子の隣にも、40代、50代の女性がいた。みんな、それぞれの「消えない一言」を抱えて、沖縄に来ていた。
まずは話を聞いてみるだけでいい。オンラインの説明会で、気になることを聞ける。
あの一言が、まだ胸に残っているなら
金沢に帰って、最初のレッスンに行った。いつもと同じスタジオ、いつもと同じ先生。でも、マットの上に立ったとき、足の裏の感覚が少しだけ違っていた。
沖縄の砂浜のひんやりした感触が、まだ足の裏に残っていた。
先生が「典子さん、なんか変わったね」と言った。何が変わったのかは、自分でもうまく言えない。ただ、呼吸が前より深くなった気がする。
53歳。教える側に立つかどうかは、まだわからない。でも、あの沖縄の朝、波の音に呼吸を合わせたとき、「伝えたい」と思った自分がいた。それだけは、確かだった。

